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夕刻から降り出した雨は、
単なる通り雨ではないが土砂降りとまでいかぬ雨脚を
しとしとと連綿と紡いでおり。
中途半端にぬるいままの夜気では、
明かりを落とした風呂場にこもった湯気はなかなか冷めそうになく。
『…中也さんを呼ぶか?』
『…っ。』
そんな雨に塗りつぶされてた宵の空き地に、傘もささずに立ち尽くしていた虎の少年。
声を掛けても反応は薄く、余程長い間雨に打たれていたものか、髪から服からずぶ濡れで。
早く連れ帰らねばと思っての窮余の策、この子が慕う頼もしい兄人の名を出すと、
悪戯なことを叱られないかと、それでも含羞むかと思いきや、
弾かれたように顔を上げた敦が、何とも言えない表情となったのがあまりに意外で。
大きく見開かれた双眸に悲哀の膜が張り、苦しげに顔を歪めた彼だったのへ、
“ああ、これは…。”
芥川にも覚えのある顔、
逢いたい人の名だが、けれどそれが叶わぬ痛さに歪んでいる顔だと判る。
だが、まだどこかおずおずという感も無くはないものの
日頃それは睦まじくしていよう相手を持ち出され、
素直ないい子のこの彼が 何故またこんな切なげな顔をするものか。
「熱くはなかったか?」
カチンとドライヤーのスイッチを切って、
すっかりと乾いたがそれでも湯上り特有のしっとりした感触のする
淡い銀髪を撫でてやれば。
こくりと頷き、だが依然として俯いたままの少年であり。
自宅へ戻ってすぐ、
びしょ濡れの彼を風呂場へと押し込んだものの、
なかなか湯を使う音がせず。
着替えを抱えて戻ってそれへと気づき、
脱衣所への仕切りを開けかかったところ
やっとその奥の浴室へ入った彼で。
いまだ呆然としていてか、
動きや反応が随分と緩慢になっている様子なのが やはりらしくはない。
上がって来ても一言も口を利かずで、
とりあえず髪を乾かしてやって、さて。
「……。」
自分もあまり口が回る方ではない。
場を和ませたり温めたりするなんて、
羅生門で千人斬りをする方がよほど…と思うほどに縁のない話であり。
だがまあ、知らぬ仲ではない相手から何かを訊き出すということならば、
そんな自分にも出来ない仕儀ではなかろうと。
もう一度、おとうと弟子の少年の頭をくるりと撫ぜると、
湿ったバスタオルとドライヤーを手に一旦リビングから離れる。
この時分の雨だから刺すほど冷たくはなかっただろうが、
それでもどのくらいの間 濡れていたかが判らぬので、
ドライヤーとバスタオルを片づけたそのままキッチンへ向かい、
先程までゆるゆると温めていたミルクをマグカップへそそぐとラム酒をひとたらし。
それを盆に載せてリビングへ戻ると、
先程とまるで動いちゃいない、石造りの塑像のような少年の前へそれを供す。
「飲め。」
こちらからの短い言いようを、
望みや願いではなく“指示”ととったか素直に手が伸びたが、
さほど熱くはないはずが、口許へ触れさせただけで手が止まり
そのままカップを離すので。
いきなりくっきりとした反応を示したことへ、
おやとこちらも意識を留める。
「どうした。ただの牛乳だぞ?」
「…。」
何か言いたげに顔を上げるのへ、
「正体不明なものは飲めぬか?」
「〜〜〜〜。」
そうと問えばゆるゆるとかぶりを振り、
浮かしたままのマグカップをじいと見やる。
只のミルクじゃあなく、
ほのかに香るエッセンスがあることへ彼にも覚えがあったらしく。
「…中也さんの。」
「ああ。僕も眠れぬ折によく作ってもらった。」
さっき名前を出しただけで、
触れてはならぬもののような反応を見せたこれも延長か、
だが、これでは彼の側からの拒絶とも取れること。
しばしカップを見つめていた敦だったが、
すんと小さく鼻を鳴らすとそろそろと口をつけ、
両手で大事そうに抱えてこくこくと半分ほどを飲んでしまう。
好き嫌いのある香りだが、甘い風味のを用いれば慣れない者にも飲みやすく、
自身が知っているものと寸分違わぬ風味だったか、
ほうと吐息を洩らしてテーブルに戻したそれを、見つめ続ける少年であり。
ああこれはやはり、あの兄人との間で何かこじれたのかなと察しておれば、
「…嫌われちゃった。」
「?」
「言ってはいけない我儘を言ったから、
中也さんもさすがに怒っちゃったみたいだ。」
だとすれば辛いことなのだろうに、
赤みのさす頬を小さくほころばせ、他人事みたいな顔をし、
訥々と語り始めた話によれば。
中原の自宅でのんびりと語らい合っていたところへ
配下の人からだろう急な呼び出しの連絡が入り、
何だか緊迫した空気となったそのまま
現場へ向かう前に送っていくから帰りなさいと言われた。
ここで待っていてはいけないのかと訊いたが聞いてもらえず、
だったら一人で帰れると言えば、それもダメだと腕を取られて。
駐車場まで降りたところで
そこまで子供扱いしないでとつい声を荒げたら、
「 “勝手にしろ”って初めて言われた。」
ちょっぴり声がわなないて、今にも泣き出すかと案じたが、
雨の中でさんざん洗い流しでもしたものか、それとも先程の風呂でこっそり泣いたか
不思議な色合いの瞳は今はもう乾いており。
すんと小さく鼻を鳴らして息を整えてから、語り続ける彼であり。
「そのまま車を出していっちゃった中也さんを見送って。」
勝手にすればいいんだろうと、
表へ出て帰りかけたら雨が降っていて。
湿っぽくて少し冷たい夜風に当たっているうち、
少しずつ頭も冷えて来て。
これまでにも自分で手掛けたいと我を張ったのへ
“好きにしろ”と言われたことは幾度かあったが、
それらはちょっと呆れつつの言いようで。
あーあーほら無理だったろうがと苦笑交じりですぐさまフォローに回れるよう、
ずっと傍にいてくれてのもので。
今宵のは背中を向けられるほどの、本当に腹を立ててのお怒りだったので、
ああここまでの我儘はいけなかったんだと気がついた。
頭を冷やせば判ること、
もしかせずとも何かしらの荒事への助っ人として呼ばれた中也で、
仮にもポートマフィアの手の者があたっている制裁なり抗争なりなのだ、
中途半端な顔ぶれでの対処であるはずはなく、
それだのに手を焼くような相手方だというなら、
マフィア側の頼もしい顔である中原に関しても
マークしていよう手筈が行き届いているやも知れぬ。
万が一にも
そんな彼へも 駆けつけられないようにと
見張りなり伏兵なりが寄越されていたら?
自宅が知られている恐れは往々にしてあり、
そんなところに敦を一人居残らせるわけにはいかないし、
独りで帰らせるわけにも行かぬと、中也が思ったのももっともな話で。
自分の身くらい守れるという言いようへ、
そうかそうですかと、そこは彼の側も時間的な余裕がなくてのこと、
珍しくもややキレてしまったのだろうが、
それだけ怒らせてしまったのだ、と
帰り道で雨に降られ、どんどんと頭が冴える中、
そういったことに気がついて呆然としていたらしく。
「図に乗ってたんだ、ボク。」
中也さんは優しいから つい忘れていたけれど、
まだまだ子供なボクでは全くの全然 釣り合いはしない人だのに。
どんなに困らせる事態になっても気にすんなって笑ってくれるし、
困らせはしないかって尻込みするのへどんどん手を伸べてくれるし。
甘やかすのが楽しいのだと、
稀少な休みだろうにいつも傍にいてくれて、
綺麗なお顔をそれは朗らかにほころばせ、
敦と、こっちへおいでと いつもいつも呼んでくれて。
「一人前に対等でいるんだなんて思い上がってて、
「手を焼かせたくはなくて、自分の身は守れるからと言い張った。」
かぶさるように言われ、視線を上げると。
傍らのスツールへ腰かけていた芥川が、穏やかな顔でこちらを見やっており。
「確かに、
何言ってやがるんだこの半人前がくらいの想いから
ムカッと来た中也さんかも知れないが。」
きつい叱咤を端と述べられ、その鋭さへ ううとたじろぐ虎の子へ、
「それをそのまま持続させて、挙句 見限るような、
そんな小粒な人ではないぞ?」
凛々しくもくっきりした、だが肉づきの薄い口許をくすんと微笑う形にほころばせ。
少しほど背中を丸めて前かがみになると、
膝についた肘の先、品のいい手を重ね、そこへ細い顎を載せた芥川。
黒々として印象的な双眸からの視線をするりと流して、
「信条が違う、気性も違うというのに、
ポートマフィアを裏切った格好のあの太宰さんと
喧嘩腰ながらもいまだに付き合いがあるのをどう思っていた?」
「あ…。」
自身の甲斐性という範疇の中でであろうが、
それでも連絡を取り合いの、頻繁に顔を合わせのしている彼らで。
太宰の側はともかく、
中也の日頃のポートマフィアへの忠誠を思えば
本来ならば有り得ないことだろうに、
間に自分や芥川という微妙な関わりとなっている存在もあってのことだろうか、
そこは随分と柔軟的に対処対応している彼であり。
「確かに、奔放なようで融通が利かないところもある人だが、
それこそ、それへ気づいたくらい親しくなってる貴様だというに、
今更そのくらいのことで縁切りするほどの大ごとにはしない。」
深みのある漆黒をたたえた双眸をやや細めて、
ふふと小さく頬笑み、
「むしろ、中也さんの方からも ある意味で甘えたのかもしれない。」
そんな意外なことをまで言い出され。
「甘えた?」
それはさすがに意味がよく判らないと、
怪訝そうに目許を眇めた虎の子へ、
だが芥川は相変わらずの澄ましたお顔で是と頷いて、
「自分も反撃くらいできると言わんばかり、
勇ましい啖呵を切ったくらいだから、
壊れものみたいに扱わずともいいのじゃないかと思ったのかも知れぬ。」
現に、送ってゆくと言ったはずがその場へ置き去ったのだろう?
頼もしさを認めての対処だったのかもしれぬぞと、やんわりと目許を細めれば、
「…そ、そうかなぁ?」
だとしたら。
勝手にしろというあの啖呵は、もうこれっきりだという意味ではなくなる。
そんな解釈はさすがに浮かばなかったので、
だったらいいなぁという希望的観測の暖かさへ、
やっとのこと普段のそれに近い、含羞みの笑みがお顔に宿った虎の子くんで。
ああそうだ、この子のこの笑顔見たさに、甘やかす中也さんなのだなと。
芥川もしみじみと実感しつつ、
“それより何より、
僕がどれだけ手を焼かせたかを
具体的に聞かせてやりたいほどだ。”
親戚縁者でもない、直接の部下でもなかったというのに、
それは不安定な状態だったのを4年もの間ずっとずっと支えてくれた。
どれほどの寛容と許容、忍耐力があってこなせたことかと思えば、
こんなにも純真無垢な少年の可愛らしい我儘なぞで、
あの人が愛想を尽かすなんてそれこそ有り得ない。
…とは思うが、それこそ余計な情報だとも思う。
そんな話、されたところで誰もいい気はしなかろし、
憐憫や同情を抱えて されどそれを示すことは適わぬまま、
戸惑う人や気後れする人ばかりが続出するだけ。
手柄の主である中也がそれこそ一番困るに違いない。
なので、これはまだまだナイショの秘密。
どれほどのこと人品優れているお人かは、
こんなことを足さずとも皆知っているのだし、と。
今はまだ胸に秘しておくこととした、芥川なのだった。
◇◇
まだご本人との顔合わせはしていなので、何とも言えないことながら、
それでも芥川が “いつもの間柄へちゃんと戻れるよ”と太鼓判を押すと保証してくれて。
そんな安堵と先程飲んだミルクが効いたか、
かくりと頭が大きくふらついた人虎の少年だったので、
「今夜はもう寝てしまえ。」
立ち上がって傍へ寄り、
身をかがめて二の腕の下、脇の辺りへ手を入れると
ひょいと抱えて肩の上、
あっさりと担いでしまった黒の青年の思わぬ剛力に
えっと眠気が去りかかるほど驚いた敦だったが、
ようよう見やれば…そんな彼の身の側線や腕に沿って、
細くなった羅生門だろう黒っぽいリボンが走っており。
「それ…。」
「うむ。さすがに通年であの外套は大変なのでな。」
黒っぽいしっかりした生地の衣紋ならば、応用が利くのらしく。
生地の面積が減ると活動範囲が減るかも知れぬので
しっかとした任務へはいつも通りの黒外套を着てゆくが、
それ以外の場面では着ている衣装で間に合わせているのだとか。
今も洒落たTシャツに重ねて黒地の内衣を着ている彼であり、
そこから音もなく伸びていた細い黒獣を添わせる格好で、
敦の身へシュルシュルと巻き付け、
ようよう抱え上げた…振りをしたという手妻だったよで。
そのようなお遊びめいた仕儀にて寝室までを運び、
ベッドの上へ とさんと下ろしてやれば。
日頃は布団派か、
ふんわりとしたクッションの利きようへくすすと機嫌よく笑って見せて。
ほらと掛け布団をめくり、その身を納めた上からポンポンと軽く叩いてやり、
大人しく寝ろと声を掛けたそのまま身を返した兄人だったのへ、
「………あのね?」
布団の縁で口元を隠し、小さな小さな声で少年がねだったのが、
これまた可愛らしい代物で。
眠るまで手をつないでいて
後でこれもこっそり白状されたが、
孤児院に居たころからして そんなとんでもない“贅沢”などしたこともないという。
そんな級の甘えようをされたなんて、と、
ついつい隠し切れないほどの笑みがいつまでも込み上げて止まず。
今もそうだが後日の折も、そりゃあ困った芥川だったそうな。
to be continued.(17.05.30.〜)
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*もちょっと、おまけに続きます。
完全に蛇足ですが、よろしければお付き合いくださいませ。

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